なぜ創業63年の住宅メーカーのHESTA大倉が、太陽光発電事業を始めたのか――。きっかけは30年前の1995年1月17日、日本を震撼させた「阪神・淡路大震災」でした。夜明け前に襲った大地震の被災状況が徐々に明らかになるなか、テレビには阪神高速道路の橋げたが、もろくも倒壊した映像が流れます。
■「阪神」で全壊・半壊ゼロ、しかし電気は供給できなかった
「阪神地域に当社がご提供した住戸がたくさんある」――。当時の社長は現場に急行するよう営業担当者に指示を出します。阪神高速道路近くに建設したマンションも無事で、当社が供給した住戸の全壊・半壊はゼロでした。創業以来、丈夫な家づくりにこだわってきて、本当によかったと安堵しました。
しかし、水、ガス、電気といった生活インフラが寸断し、お客様は辛い避難生活を強いられていました。当社はアフターメンテナンスを重視してきた企業ですので、新規の営業をストップし、全社員で毎日、お客様のもとに水とおにぎりを持って通いました。
水は何とか運ぶことができましたが、電気は住宅メーカーの当社にはどうすることもできず、悔しい思いをしました。経営者は一つの決断をします。「住宅を買って頂いたお客様の家族の生命と財産を守ることが当社の経営理念。であれば、災害時の電源供給システムも手掛けるべきではないか」――。
■既存のパネルの「重さ」は、住宅メーカーとして許容できない
住宅に設置できる電力システムとして、ソーラー発電が最適です。しかし、従来のガラス製パネルを手掛けることはできませんでした。理由は「重い」からです。屋根の上に軽自動車2台分のパネルを積む。数値上の耐震性は確保できたとしても、想定外の揺れが来たらどうなるのか。決して忘れることができない「阪神」の悲劇をこの目で見た当社の社員にとって、お客様に既存ソーラーをお勧めすることができませんでした。
何とか軽くて、薄くて、自在に曲がって、どこでも安心して設置できるパネルを開発したい――。当社の技術陣はあきらめることなく開発を続けます。そして2024年秋、海外企業の協力も得て開発したのが「HESTAソーラー」です。
■「間に合わなかった…」悔し涙流した「能登」の悲劇
振り返ればこの30年間、東日本大震災を始め、何度も大きな地震が日本を襲い、多くの方を苦しめました。HESTAソーラー発売のおよそ半年前の2024年1月1日には、能登半島地震が発生しました。現場に支援に入った当社の社員たちは、ソーラーパネルを設置した住居が倒壊している姿を見て絶句しました。「間に合わなかったのか…」――。技術者たちの長年の努力をあざ笑うかのような光景でした。この悔しさをばねに今、全社員を挙げて一か所でも多くの場所に採用頂けるよう、営業活動に汗を流しています。
HESTAソーラーは、住宅を知り尽くした企業が、災害時でも暮らしを守るために考え抜いた商品です。住宅は30年保証します。「建てて終わり」のビジネスではありません。ソーラーパネルも「設置して終わり」ではありません。他社にはできない長期保証を整備しました。遅くなりましたが、自社ブランドの蓄電池の供給体制も整いました。
■住宅メーカーがソーラー、それは「必然の連鎖」
お客様に快適で安全・安心の暮らしを提供することがHESTA大倉の使命です。巨大地震の不安を抱え、地球温暖化に歯止めがかからない今、住宅メーカーが再生可能エネルギー事業を手掛けることは、必然の連鎖なのです。HESTA大倉は、災害時にも停電時にも、安心して生活できるソーラー発電の普及に全力を尽くします。
長くなりましたが、ここまで私たちの想いをお読みいただいた皆さま、ありがとうございました。
HESTA大倉 代表取締役社長 鬼塚友章